自分の信じる軸を正論のみで埋め尽くしてはいけない

人間であれば誰でも正しい道を歩みたいと思うものだと思います。

一方で、嘘も方便 という言葉があるように、一見すると”嘘”という不誠実で間違った方法であっても、結果的にその人のためになったり望ましい(正しい)結果に導くことができることもまた事実です。

幼い子どもに「サンタクロースなんて架空の存在だから、現実社会においては実在しない。あれはお父さんがおもちゃ屋さんで購入してきたものを・・・」なんて説明して子供の夢を壊すことについても、賛否両論ありますよね。

正しい道を自分の軸にセットするということ、コンプライアンスを遵守するということは、自分や相手や社会にとって望ましい結果をもたらすための手段の一つに過ぎないと私は考えています。

正しい道を進む方が望ましい未来に到達することが多いということは事実です。

そして、ブラックな手法を正当化するつもりは全くありませんが、はっきりと白黒がつけられない、だだっ広い”グレーゾーン”の端から端を右往左往しながらその時の判断をしているというのが大多数の人の現実ではないでしょうか。

正論だけでは到達できない答えもある

あらゆることに言えますが、完全に正論ばかりで生きていくことはほぼ不可能です。

正しい選択のみをしているようでも、自分では気がつかないところで不正なことをやってしまっています。

もちろん、それはものすごく些細なことなのかもしれません。

私の職場にもいます。

正しい行いを誠実にできていない場面に遭遇した時、その場できちんと正すように指摘する勇気がないのを棚に上げて、スタッフルームで同僚の手を止めて自分の考えの正当性を共有して共感してほしくてひたすらに業務時間内に不毛な愚痴を延々と話している人。

周囲に聞こえるように話しているので、他のスタッフを不快にさせて士気を低下させ不愉快な時間と空間を作り上げていることに、本人は気がついていません。

あるいは、自分の指摘を中間管理職をとばしていきなりトップに直談判して、きちんと対処してくれない、すぐに対応してくれないからと愚痴をこぼす人。

トップのワンマン運営やパワハラにならないよう、幹部会で検討して幹部の総意として客観的な複数の意見をふまえて判断したいだけなのに、「自分で判断できない弱腰な上司だ」とレッテルを貼る。

正しいことばかりで埋め尽くしてしまうと、どこかに矛盾が生じることだってあるのです。

何を目的に議論するのかを見失わないように

組織の円滑な運営を目的にしているのであれば、どうしても正論だけで埋め尽くして考えていくには無理が生じることだって出てきます。

かといって、法令遵守を無視してしまっては絶対にダメです。

そこで、グレーゾーンという広い空間をギリギリまで攻めることでお互いの妥協点を探っていくわけです。

すぐには結論が出ないこともあるでしょうから、ひとまず意見を着地させるポイントを探すことは、結論を先延ばしにしているようにも見えますが、時間が解決できることもあるはずです。

そうでなければ、いろんな国際社会問題だってあっという間に解決しているはずです。

正論を振りかざして白黒はっきりつけるのは楽な道だと心得る

正直、正しいことと間違っていることを判断材料にするということは、ある意味では楽な道と言えます。

世の中の苦労人たちは、誰もがなるべく傷つかないように、コンプライアンスを遵守しながら、円満に解決できる道を探りながら頭を抱えて苦しんでいるのです。

それをせず、ろくに考えることもせず、正しいか間違っているかという物差しだけで即座に判断することが、必ずしも望ましい結果になることばかりではありません。

一つの結果にこだわるのはいいとしても、固執することは必ずしも望ましい結果にはなりません。

一つの結果に執着することも、望ましい結果をもたらしません。

柔軟に臨機応変に対応できる人間力を養うことは、社会生活を営む上で必要なこと。

そして、その状況の変化に柔軟に対応することの大切さを知り、常に考えていることが大切なことなんだと個人的には考えています。

正直、何が正しいかなんて誰にもわかりません。

正解はなくても、よりベターな答えがみつかればひとまず成功とみなし、答えがないという答えを知るということもまた大切な考え方 ではないかと思うのです。

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